Introduction -プロダクションノート-

リンチが『インランド・エンパイア』という名の大きな魚を釣り上げるまで。

davidlynch.comの活動を経て、完成した最新作。
果たしてデイヴィッド・リンチは『マルホランド・ドライブ』(01)の次回作を撮ることができるのか? 世界中のファンが心配していた時期があった。
理由の一つは、『マルホランド〜』で、『ロスト・ハイウェイ』(97)を超える、究極の「視覚と聴覚の芸術」を確立したこと。
もう一つは、02年に立ち上げた自身の会員制(月額約10ドル)サイトdavidlynch.comへの激しい入れ込みぶり。ファンはコンテンツの充実度に狂喜しつつも、逆に、リンチはもう劇場用映画への執着がなくなったのでは? と不安に陥ってしまったのだ。しかし、すべては杞憂であった。davidlynch.comの活動が、『インランド〜』が持つネクストレベルの構造に、大きな影響を与えたことが伺えるのである。

撮りながら考えるーーその繰り返しで、180分。
近所に越してきたローラ・ダーンとの偶然の出会いから、リンチは彼女のために14ページのモノローグの脚本を用意し、davidlynch.com用に70分の映像を撮る。ところが、興が乗ったリンチは全体の脚本を書かないまま、ロサンゼルスで、ポーランドで、その都度、好きなシーンの脚本を書き、それを撮っては、撮影中に浮かんだアイディアを次に撮るーーその繰り返しで、3時間の大作になったというのである。
ちなみに、劇中でポーランドの俳優が口に咥えさせられた赤い電球は、リンチが自分のオフィスで見つけてきたものであったというエピソードも紹介されている。様々なシーンで、現場でのリンチの閃きが大切にされたようだ。

インランド・エンパイア インランド・エンパイア

SONY PD-150の功績
頭の中に次々と生まれるアイディアをスピーディに形にできたのは、少数のクルーでも撮影できるデジタルヴィデオカメラ(SONY PD-150)のおかげだという。
振り返れば、長編デビュー作『イレイザーヘッド』(77)は完成までに、リンチが製作+監督+脚本+編集+美術+特殊効果+音響効果+主題歌「天国ではすべてうまく行く」の作詞と1人8役をこなし、5年かかったと聞く。『インランド〜』では30年のキャリアの成果でハリウッド/ポーランドのプロのスタッフが参加しているものの、製作+監督+脚本+撮影(共同で)+サウンドデザイン+再録音のミキサー(共同で)を手がけ、サウンドトラックのうち数曲の作曲や演奏や作詞も担当し、照明係バッキー役でも登場する。ある意味、原点回帰と言っても過言ではない製作スタイルに見える。

音響へのこだわりが、リンチマジックを生む?
『インランド〜』では丁寧に作った画と、DVの特性を生かして乱暴に撮った画が混在しているが、それが確信犯的であることは間違いないだろう。それでいて鑑賞後に1本の映画としての余韻があるのは、ローラ・ダーンの演技力とリンチの音響へのこだわりの成果にあるという批評が多く見受けられる。
観客がリンチの映像にショックを受けるとき、そこには巧妙に仕掛けられたノイズの効果が大きいと思われる。『インランド〜』においては、たとえば、汽笛に似たサウンドがウサギ人間たちのシーンでも小さな一軒家の娼婦たちのシーンでも流れ、複雑に交錯する世界にどこか関連性があるかのように感じてしまう。音響への強い意志が、リンチマジックを生むのではないだろうか。

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